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◆旅の雑記帳





01.お見通し

インド、2000年1月



ネパールのポカラから十八時間、「ジャンピングバス」との異名を持つバスに激しく揺さぶられ、疲労困憊の体でたどり着いた町には朝もやが立ち込めていた。


ここはインドとの国境にあるネパール西端の町、マヘンドラナガル。ふらふらの頭で「さて、どうしよっかな……」と考える努力をする。気が付くと、目の前に停まっている乗り合いタクシーの中から一人の青年が手招きをしていた。なんだか考えるのが億劫になって、それがどこに向かうのかも確かめずにふらっと乗り込むと、到着したのは国境だった。


本当はマヘンドラナガルの郊外にある野生動物保護区を訪れるつもりだったが、面倒くさいので国境を越えてデリーに向かうことに決めた。しかし周りを見渡しても、イミグレらしき建物は見つからない。道行く人に教えてもらった場所はどう見てもただの民家。しかも、朝早すぎるからか玄関は閉まったままだ。


立ち往生していると、近くの商店のおじさんが痺れを切らしたようにずかずかとやって来た。裏庭に面した扉を勝手に開けて、「こっちに来い」と手招きをしている。遠慮がちに中に入ると、ごく普通の家族が朝食をとっていた。子どもたちは突然現れた外国人に戸惑った様子だったが、まだ朝食中の優しそうなお父さんが一瞬にして審査官になり変わり、パスポートにスタンプを押してくれた。


現地の人はフリーパスなのか、国境線の役割を果たしているらしきバーを勝手にくぐり、もはや自分の国ではない土地にこれっぽちの遠慮も見せずに入っていく。そこに日本人の描く国境のイメージはない。「またインドか。気を引き締めていかな」という覚悟で臨んだが、インド側の国境審査官はただただ陽気なおっさんたちだった。賄賂のひとつでも要求されるのではないかと冷や冷やしていたから、うれしい拍子抜けだった。


デリーへのバスが出ているバンバサの町へリキシャで向かっていると、ぽつぽつと空から降ってくるものがあった。次第にその勢いは増し、何の構えもなかった僕は全身濡れそぼち、バックパックもびしょ濡れになってしまった。寝不足、疲れ、雨と汗と脂でべとつく肌。一人旅の辛さはこういう状況で、一緒に笑い飛ばせる相手がいないことだ。じっと一人で苦難に耐えるしかない。


デリー行きのバスを見つけて、重たい体を固いシートに置く。このバスがまたひどい。スピード狂の運転手がハンドルを握り、発進のときには男たちを集めて「押しがけ」をしている。けど、どんなにひどいバスでも、目的地に到着するまでは何も考えずに、流れる風景をただ眺めていればいい。僕はこの時間が嫌いじゃない。


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デリーに到着したのは夜の帳が完全に下りた頃だった。ポカラから三十時間以上ぶっ続けで移動してきたが、まだゴールではない。それどころか、この大移動の最後を締めくくるバスターミナルからデリーの安宿が集まるメインバザールまでの移動は、ジャンピングバスよりも暴走バスよりも気が重くなるものだった。


インドの一人旅にもだいぶ慣れてきたが、やはり初めての町に夜飛び込むのは緊張を強いられる。しかも、その町というのが悪名高きデリーなのだから相当なものだ。地理が全くわからないから、オートリキシャ(三輪バイクタクシー)のドライバーをただ信じて、オレンジ色の白熱灯が浮かび上がらせる町並みを眺めていた。


「宿は決まっているのか?」と聞いてきたドライバーのおやじに「ああ、決まってる」と嘘をつく。正直に答えたところで、マージン狙いで下手な宿に連れて行かれるのがオチだ。それっきり口を開かなくなったおやじを後部座席から観察する。丸い背中と牛乳瓶の底のようなぶ厚い眼鏡。その姿はどこかひょうきんでひ弱い印象。狡猾な人間が群れるこのタフな国で生きてきた人間には見えなかった。このおやじなら大丈夫だ。ぼられるなんてことなんてないだろう。


町の明るさが繁華街の様相に変わってきたころ、おやじは「なんていう宿だ?」と尋ねてきた。急な質問にうろたえて「いいから、メインバザールに行ってくれ」と無愛想に言い放つと、予想外なことにおやじが声を荒げた。「宿まで行ってやろうとしてるんじゃないか!」 そして、また寡黙になった。


気まずい雰囲気を乗せたリキシャがやがて停まった。インターネットカフェの看板、Tシャツに短パンの西洋人。メインバザールに着いたようだ。料金を払い、荷物を背負って歩き出した僕の背中におやじが言った。宿が決まっているはずの僕に。


「宿の客引きには気をつけなさい。マージン狙いの悪いヤツがたくさんいるから」



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