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◆旅の雑記帳





05.大峡谷にて(1)

アメリカ、1999年7月



鳥肌が立った。


視界の限り広がる自然の彫刻作品は、写真や映像で何度も鑑賞してきた者をも裏切らない圧倒的なものだった。そのスケールに唖然とし、一筋の水がこの偉業を成し遂げるのに要した年月に思いを馳せる。同じ作業をこれからも一秒たりとも怠ることなく続けていくというのだろうか。眼前の壮大な渓谷は、しかも、その全容のほんのかけらのような一部をさらけ出しているだけだという。えらいこっちゃ……。


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不器用な巨人がフォークで巨大なミルフィーユをガリガリと気まぐれに削ったみたいに、あちこちで時代時代の色の層がむき出しになっている。けど、そこにある種の秩序を感じるのは「自然」と「時間」という創作者に雑念がないからだ。人間が作ったトレッキングルートは細く頼りないものだが、完全な自然領域の中で唯一人間の意図によるものであり、新車のボディーについた一筋のひっかき傷のように目立っていた。


時間が経過する。一時間、ニ時間……。高く昇った太陽はグランドキャニオンの色彩感をにぶらせ、立体感を乏しくし、どこを見ても変わり映えがしなくなってしまった。角度を変えて、場所を移動して、カメラを何度も構えて、もう一度肌が震えるかを試した。でも駄目だった。


「グランドキャニオンは初めて視界に捉えたときに一番感動する」


見事に真実を言い当てた言葉だ。一目見た瞬間に迎えたクライマックスはすぐに過去のものとなる。劇的な変化を見せる夕暮れの峡谷は文句なく美しいものではあったが、それすら最初の衝撃を越えることはできなかった。でもがっかりはしない。僕にはまだ次の楽しみ方があった。


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今なお大地を削り続けているコロラド川。そのほとりのファントムランチと呼ばれるエリアに一軒の宿とキャンプ場があり、どちらかの予約が取れていれば峡谷の底まで歩いて下りることが許可される。僕は運良く、本当に運良く、日本を出発する直前にパソコンの画面上に空き部屋のサインを見つけた。それ以来、グランドキャニオンの深部に触れる日を、カブトムシを捕りに行く田舎での夜みたいに心待ちにしてきたのだ。


翌朝、快晴。バナナとパンケーキ、そしてオレンジジュースの簡単な朝食を済ませるとすぐに出発する。下りに選んだのはサウスカイバブトレイルと呼ばれるルート。期待に胸を膨らませて下り始めたころは、観光用のロバの糞が酸っぱい匂いを発していることさえ除けば楽しかった。絶壁を横から見たり見上げたり、刻々と新しい風景が展開されるのにいちいち興奮していた。日陰も多く体力も十分あった。


しかし、思ったより早くコロラド川が眼下に見えるようになると、気持ちが緩んだのか一気に疲れが襲ってきた。そのころには身を休める日陰は全くなくなり、標高が下がり太陽が高く昇るにしたがって着実に気温が上昇した。持ってきた水はすっかりぬるくなり、口に含んでものどを潤すというには程遠い。「谷底」という響きに涼しさを期待していた愚かさが、疲労の速度に拍車をかける。


「ガッ、ガッ、ガッ、ガッ」
とぼとぼと歩を進めていると、すぐ近くで下手くそなバイオリンのような音が聞こえる。
「ガッ、ガッ、ガッ、ガッ」
発情期を迎えたオス猫が笑ったらこんな声だろうか。
「ガッ、ガッ、ガッ、ガッ」
そして思い出した。ここがガラガラヘビの生息域であることを。


何かの番組で見たガラガラヘビはまさしくこんなところにいた。サボテンをバックに乾いた赤土の上でとぐろを巻いていたはずだ。発する音はジーという感じだったけど、成長すれば変化するのかもしれない。しかし、それらしいものは見当たらない。正体を突き止めるという手もあったが、文字通り藪蛇になりかねない。結局、姿を見せない敵を警戒して、四方八方に神経を擦り減らしながら歩いていくほかなかった。


気が付くと周りに誰もいなかった。道を間違った?そんなはずはない。足下の道は頼りないけれども、確実に眼下のコロラド川まで続いている。太陽に焼かれ、体も服も帽子も首に巻いた濡れタオルさえもが熱を溜め込めるだけ溜め込んでいる。日射病の気配に怯えるが、日陰も水場もないからどうしようもない。とにかく前へ進むことだけを考える。


少し朦朧としていたときだった。
「ガッ、ガッ、ガッ、ガッ」
突然に至近から発せられた音に立ちすくみ、首だけ動かして辺りを窺う。わずかながら動くものがあった。保護色になっている。目を凝らしてそれを認めると、へなへなと倒れそうになった。それは不気味にこちらを睨みつけるガラガラヘビ、ではなく、トレイル沿いの潅木に潜むセミだった。肩をたたいて笑い飛ばす相手もいない。一人で苦笑する。


ようやくコロラド川に到達する。冷たい川の水で体を冷やすと生き返った。それでも、残りのファントムランチまでのわずかな平坦道がまるで逆風に向かって歩いているよう。いや、鉄球を引きずりながら歩いていると言ったほうが近いかもしれない。なんとか、宿に到着した僕は相当ひどい顔だったに違いない。受付の人たちに心配されながら、冷たい水をがぶ飲みする。うまい!


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目に気持ちいい緑と耳に優しいせせらぎ。これまで無愛想な顔をしていた大峡谷は、オアシスを広げて僕を待ってくれていた。しかし、45℃は暑すぎ!シャワーを浴び、赤砂だらけとなったジーパンと靴を川で洗うと、二段ベッドが並んだ小屋で午睡をむさぼった。


目を覚ますと体はずいぶんと楽になっていた。空気も柔らかくなっていた。グランドキャニオンの深いふところに抱かれていることに酔いしれながら、夕涼みを楽しむ。太陽が一日の仕事を終えると、遠くの岩壁と空との境界線に灯が並んだ。あそこからこっちを覗き込んでいる人間がいるんだと思うと、自分が井の中の蛙になったようで滑稽だった。


「下から見上げてる俺のほうがすごいもんね!」と自尊心に満ちた蛙だった。



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