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写日記55.最後の楽園タンザニア(ダルエスサラーム、ザンジバル) 2008年8月2日~8月8日 マラウイのリロングウェを夜中に出発したオンボロバスは面白いほどよく揺れた。スプリングがやたらと効いたシートがまるでトランポリンのよう。窓ガラスは何故か上下逆向きにはめ込まれていて、最後の数センチがきちんと閉まらない。するとそのうちに振動で窓が全開になり、冷たい風で目が覚める。窓を閉める。体が弾む。窓が開く。目が覚める。そんなことを繰り返しながら、翌朝タンザニアに入国した。
タンザニアに入ると景色が一変した。マラウイでも森を焼いて畑にしているのは見かけたが、適当に育つものを植えました、という感じで農村風景が美しいと思うことはなかった。それに引き換え、タンザニアに入ると、茶畑、バナナ農園、ジャガイモ畑、マメ畑が入れ替わり道路沿いに連なっていた。特に茶畑の鮮やかな緑色はアジアを感じさせる懐かしい風景だった。 驚いたのは、梅の木が農家の周りに植えられていたことだ。タンザニアで活躍している青年海外協力隊が梅干の作り方でも伝授したのだろうか。とにかく、梅の木がそこここに生えていた。道を歩いているのが黒ちゃんでなければ、一瞬日本の田舎と錯覚するような山あいの農村風景だった。 しかし、そんな景色もそう長くは続かない。小一時間ほど眠って目を覚ましたときには、その辺をライオンやゾウが歩いていてもおかしくなさそうなサバンナが広がっていた。
マラウイからケニアまで走るこの国際バスにはいろんな国籍の黒ちゃんが乗っている。ザンビアの人、マラウイの人、タンザニアの人、ケニアの人。それぞれに現地語を持っている彼らをつなぐ言葉はやはり英語。席が隣同士になった黒ちゃんが、どこかよそよそしく英語でコミュニケーションをとっているのは不思議な感じだ。日本人と韓国人が英語で話しているのもこういう風に映るのだろう。
バスがこのまま順調に進めば今日の夜にはダルエスサラームに到着する。タンザニアで唯一・最大の都会とあって、治安の評判はよろしくない。そんな場所に夜中に放り出されるのは心許ない。だから、エンジントラブルでも発生して、到着が半日ほど遅れてくれないだろうかと不謹慎なことを考えていた。 日が暮れてすぐ、バスが路肩におもむろに停まったかと思うと、運転席周辺でカチャカチャと工具で金属を触る音が聞こえてきた。小さくガッツポーズ。その後、バスは動き始めたが、やはり何かが不調らしくガソリンスタンドの前で停車するとそのまま微動だにせず、気がつけば朝になっていた。 ダルエスサラームには半日遅れの午前10時過ぎに到着。気持ち悪いほどに思惑通りだ。三十六時間世話になったバスを降りるとフェリーターミナルにそのまま向かい、ザンジバル行きのフェリーに乗った。疲れがどっと出て、知らない間に眠っていた。目覚めたときに一瞬自分がどこにいるか戸惑うほど、波に揺られて熟睡していたようだ。
ザンジバルというのはダルエスサラーム対岸に浮かぶ淡路島の三倍ほどの島。かつてアラブ商人はここを拠点とした奴隷貿易や丁子栽培で富を得た。今でこそ島内でアラブ人を見かけることはないが、黒ちゃんのかぶっているイスラム帽やアラブ風の建築物が歴史を語っている。 現在はタンザニアの一部だが、ザンジバルはほんのわずかな期間ながら独立国だったことがある。その名残か、同じ国内でありながら、ダルエスサラームからザンジバルに入るには入国手続きが必要。僕らのパスポートにもザンジバルのスタンプが押された。
フェリーが到着したザンジバルの中心地ストーンタウンは、狭い路地が迷路のように入り組んでいる。道に迷いながら安宿を探していると、見覚えのある顔に出くわした。日本人。名前は知らない。けど、会ったことはある。「どこかで会ったことありますよね?」と声をかけるが、向こうも同じような感覚らしい。 記憶の糸をたぐって、彼と出会い、立ち話をした場面を思い出した。エルサレムの旧市街。確かちょうどムスリム地区とユダヤ人地区の境界のところだった。確か彼はあのあと、イスラエル人の友人を訪ねにキブツに行くと言っていた。そのことを話すと彼も合点がいったようだ。 今回もまた立ち話に終わったが、いいことを教えてもらった。ザンジバルの東岸にはパラダイスビーチという日本人の女性が経営するバンガローがある。それはそれは素晴らしい場所らしいので、僕らもそこに行くつもりだったが、いかんせん食事なしのダブルで一泊50ドルと高い。 そこで彼が教えてくれたのがオープンしたばかりのマライカ・ゲストハウス(Malaika Guest House)。東岸のジャンビアーニという村にあり、目の前はビーチ、一人一泊10ドルで朝夕の二食付き。そしてここのオーナーのハジさんはかつてパラダイスビーチで働いていたから、日本食が料理できるという。これは行くしかない。
とりあえずストーンタウンで一泊だけして、明日ジャンビアーニに向かうことに決めた。彼と別れ、宿にチェックインし、二日ぶりに水シャワーを浴びる。バス移動でこびりついた汗と脂を流し、シャンプーを三回して、爪の汚れを落とした。 次は飯だ。ここ一週間、ずっと頑張ってきたんだからと自分たちを甘やかして、中華料理を食べに行った。久々に飲むビールと久々に食べる肉を口で消化するように味わう。ビールが体を巡ると、ザンジバルにやっとたどり着いたという達成感も手伝って、すぐに酔いが回った。宿に戻ると蚊帳付きのベッドで泥のように眠った。
翌朝、実に気持ちのいい目覚めだった。一部割れたガラス窓から光が差し込み、起き上がると体が軽くなったような気がした。軽くなった体で、嫁さんの買い物に付き合う。人の行き交う路地や豊かな市場は見ていて飽きないし、ムスリムが醸し出すストーンタウンの雰囲気が僕は好きだった。サングラスをかけたマサイ族がいるのには苦笑したが。
昼前に宿を出て、ジャンビアーニに向かう。ダラダラと呼ばれる乗り合いバスは最初はガラガラだったが、停まるたびにどんどん人が乗り込んできてあっという間に満席になった。席は人でいっぱい、通路と屋根も荷物でいっぱい。ただ吹き抜ける風は気持ちよく、車内の様子も外の景色も全てが平和で楽しい移動だった。
マライカ・ゲストハウスは予想していたよりぼろかった。ぼろかったけど、掃除はまめにしてくれるし、テーブルカバーを毎日変えてくれたりと清潔感のある宿だった。一番困ったのが電気がまだ通ってないこと。ホームページ作成に励むつもりだったが、電気がなければどうしようもない。しかし、そのおかげで気ままに本を読み、ビーチに出て貝を拾い、海に浮かび、子どもたちと戯れるという贅沢を満喫できた。
オーナーのハジさんと奥さんのアラファさんはどちらも控えめな感じで、二人がマライカ・ゲストハウスに注ぐ空気は心地いい。一人息子のハムシは人見知りが激しいけど、日に日に笑う回数が増えていく。ハジさんの作る料理は評判どおり美味しく、毎日食事の時間が待ち遠しかった。
庭にはゴミ捨て用の大きな穴があって、ここはヤギやニワトリがエサを探しに来たり、子どもたちがおもちゃを探したりする場となっている。ハジさんは張り切って庭に食堂を建てる計画を進めているけど、その前にゴミ捨て場をどうにかしたほうがいいと思う。
同宿者にも恵まれた。竜治君と紘子ちゃんはアウトドア好きの夫婦で西回りで世界一周中。ランタン(ときどきロウソクにもなる)を囲んだ食事では旅の話が尽きることがない。今回の世界一周でとりあえず行きたいところはかなりつぶしたつもりだけど、二人のエベレストトレッキングの話を聞いてまた行きたいところが増えてしまった。
近所に漁師のおっさんがいて、彼に釣りに連れて行ってもらった。ダウ船と呼ばれる小さな帆付きのボートに乗って海に出る。沖合いには高い波が立っているところがあって、ダウ船じゃひとたまりもないんじゃないかと心配したが、幸いその手前でボートは停まり錨が下ろされた。 糸と針とおもりだけのシンプルな釣り。嫁さんは漁師が引っ掛けた魚を釣り上げて喜んでいるが、僕はそんなんじゃ嫌だ。漁師が糸を垂らしている場所にうまく針を沈めたいがなかなかそこまで飛ばせない。うまく投げられるようになったら一気に当たりが増えたが、そうそう簡単にはかからず。最終的には、漁師が(嫁さんは「私が」と言い張る)そこそこ大きい魚も含めて六匹、僕が小ぶりなのばかり四匹釣り上げた。
マライカ・ゲストハウスはジャンビアーニの外れにあって、近所の子どもたちの遊び場と化している。みんな遊んでほしくて、写真が撮ってほしくて、いつも人懐っこく寄ってくる。無邪気で純粋な子どもたち。相手するのが面倒くさいときもあったけど、この子たちがいたからこそ僕たちはアフリカの残り時間全てをここで過ごそうと決めたんだと思う。 僕が嫁さんに髪を切ってもらっていると、女の子二人が寄ってきてじっとその様子を眺めている。左の子はアイーシャだ。右の子の名前はまだ覚えてない。散髪中の僕の前に座り込んで、二人で手を打ち声を合わせて歌いだす。まるで映画のワンシーンのようなできすぎた光景。そんなのが日常茶飯事なのだ。ここでは。
ジャンビアーニの中心部には高級バンガローやダイビングショップもあってにぎやかだけど、子どもたちは少し擦れている。写真を撮ると「お金ちょうだい」と言ってきて僕をヒヤリとさせたりする。 観光地化が進むにつれて、マライカ・ゲストハウス周辺の素朴な雰囲気もそのうちなくなってしまうのかもしれない。これは僕たち旅行者の大きな罪だといつも思う。……でも旅はやめられない。
楽園。月並みな言い方だけど、ここはアフリカの楽園だ。目の前のインド洋はこれまでに見たことのないエメラルドグリーン。潮が引くと緑色の水と白い砂のモザイク模様が浮かび、その中で色鮮やかなカンガを巻いた女性が海草を摘んでいる。夕方になると涼しい風が吹き、ヤシの葉がかさかさと音を立てる。 そんな自然に抱かれて育った人間は心根が素直で優しくなるものらしい。スワヒリ語はほとんど分からないけど、ジャンボ→ジャンボ(こんにちは→こんにちは)、マンボ→ポア(元気?→元気!)、アサンテ→カリブ(ありがとう→どういたしまして)さえ覚えれば、子どもだけでなく大人だってとびっきりの笑顔を見せてくれる。誰もが優しい顔で応えてくれる。
海と空と白砂とヤシの木だけでなく、ここに住む人たちの優しさがあってこそ楽園となれる。この楽園は南アフリカからハードな旅を続けてきた僕らに、神様が用意してくれた褒美なんだと思った。そして、同時に一つの思いが僕の中に芽生え、強くなっていった。 それは旅は終わった、という思いだ。事実ではないけど真実。旅は終わった……。ここが最後の楽園。大いなる切なさの中で僕はその真実を受け止めることにした。
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